春色無高下
3月の下旬に海外出張をして戻ってきたら、桜が咲いていた。この時期にうっかり日本に観光にきた外国人は、日本は全部桜色と思うだろうなあ。花見に出かけようと、娘たちを誘っても全くいい返事がない。よく考えると、私も子供の頃にはちっとも花見をしたくなかった。咲いているものは咲いているのだからそれを何故わざわざ見に行くのか、大人は暇か、と思っていたので不思議。
そこで頼れるは同級生の友である。高校生の時の生徒会で知り合って以来の友人と花見に出かける。今年こそはと思いネットで開花情報を入念にチェックする。隣の 印西市には「吉高の桜」という樹齢400年の御神木があるが、山桜なので花の見頃は1年に4日程度しかない。昨年行ったが見事に葉桜だった。ソメイヨシノよりも一週間遅く咲くが、今年は花冷えがつづくから両方楽しめそうだ。
友人を駅で拾いドライブする。週末で花見ができる週は限られているので道は混む。しかしそのことにもイライラしない。吉高の桜を見るための駐車場も満杯だが、それもよしと思える。それにしても、花見の混雑は多少我慢できるのは何故だろうか。
ようやく出会えた御神木はやはり圧巻だった。とにかく大きい。ナウシカに出てくるオームを連想させる。奈良の大仏を見て、あんまりに大きくてかえって大きさが把握できないのに少し似ている。こんな木が近くにあるなんてなんともありがたい話だ。桜の季節を過ぎても見に来ることにしよう。なにせ400年も生きているのだから、賢者に違いない。私の数十倍は賢いはず。
そのまま「今井の桜」まで車を走らせる。農業用水路の両脇に2キロに渡り桜が咲いている白井市の桜の名所である。しかし市の知名度と比例してかあまり知られていないので、さほど混んでいない。農業用水に桜が映り込む絵はなかなか幻想的である。その周りに咲く菜の花も、たまに顔をだしているつくしも、なんだか光り輝いて見える。そんな風景がずっと向こうまで続いている。桜の木の下で、女子高生が二人座り込んでみたらし団子を食べながら、あれこれと話し込んでいる。着いた時も帰る時もそうだったから、よっぽど話すことがあるのだろう。そんな風に時を過ごせる友達がいるのは、小さなことに思えて、多分とても大切なことだろう。
春色無高下(しゅんしょくこうげなし)。この間のお茶のお稽古でかかっていた掛け軸の文字である。「花枝自短長(かしおのずからたんちょう)」と続く。雑にいうと「春の日差しは万物に平等に降り注ぐが、結果はそれぞれ」と、「平等即差別、差別即平等」という仏教思想を表すらしい。
でも、お茶の先生は、前半を「咲く花々の美しさに優劣はない。それは人間も一緒」と解釈された。そう考えると後半も「それぞれが必要な分だけ枝を伸ばす」という風にも取ってもいいだろう。つまりは「みんな違ってみんないい」ということだろうと、新解釈をしてみる。そうしながら、卒業したばかりの4年生の顔が次々とくっきり浮かんでくる。就職や進路という意味では、満足な結果と思える人と、必ずしもそう思っていない人がいると思う。でも、多分それは表面的な世間的なことで、どんな時も、自分を花だと思って、それぞれの美しさや長所を、誰に何を言われても愛でるような毎日を送って欲しいなと、つくづく思う。
というようなことを徒然に書けるこの春は、嫌なこともいいことも色々あっても、トータルでは、かなり幸せなんだと思う。
(2019年卒佐藤ゼミ’&研究室のみなさん、遅くなり、とても回りくどい文章になってしまいましたが、ご卒業おめでとうございます。それぞれがそれぞれのチャーミングさに溢れているから、それをそのままに受け止め生かしていってね。そして月が綺麗だなとか、ご飯がおいしいなとか、あの人いいなとか思えなくなったら、弱っている証拠だから、自分の気持ちをリセットできること、例えば大丈夫かと思われるほどたくさん眠るとか、スーパー銭湯に駆け込んで2時間とにかくぼんやりするとか、高尾山に行くとか、してください。そんな余裕もないなと思ったら、遠慮なくご連絡を!)