10月生まれに共通の、ちょっとした不満にそれが旧暦の話とはいえ神無月と名付けられていることがあると思う。あるいはそんな心の狭い感覚を持つのは私だけだろうか。こんな気持ちがいい空や美味しい食べ物やちょうどいい気温と湿度に祝福されている月にこぞって出雲大社に行くなんて神様たちもずいぶんセンスがないとさえ思う。
そんなことを考えているからだろうか、思いのほか神みたいなことに触れる月になった。大阪の民族学博物館の特別展はほぼ必ず見ているのだが、今回のタイトルは「交感する神と人―ヒンドゥー神像の世界」。ヒンドゥー教では、神というものは超越的な存在ではなく、どこにでもいる。人々には「推し」の神があり、その神を人間界での恋愛のような感じで熱愛することが、信仰の証となるという。そして絵画や印刷物、タイル、刺繍、絵本、コミック、切手やステッカー、マッチ箱や調味料のプラボトルなど、ありとあらゆるものに神像が印刷されている。ポスターに刷られた神に実際に食べ物を押し付けて食べさせたり、小さな神像を沐浴させたり着替えさせたり、路傍の石に赤い布を着せて神霊を宿らせたりにぎにぎしい。神道と同じ自然崇拝がベースだというのに随分と違う世界観だなあと展示を見ながらただ驚く。歳を重ねて太々しくなったが、久々の異文化体験である。
その次の日は、昨年10月に亡くなった祖母の追悼ミサがカトリック教会で行われ、叔父と参列する。カトリックのミサは立ったり座ったり歌ったりとなかなか儀礼的な動きが多く、式次第と実際の流れが微妙に違うのでいつもあたふたする。祖母の葬儀が教会で行われた際にアメリカからいとこが来ていたが、もらっている次第と実際がずいぶんと違っていて、自分の日本語能力が恐ろしく低下してしまったかと思いかなり慌てていたことを思い出す。薄寒い礼拝堂で寒がりつつ、そしてあたふたしながらも、祭壇にある大きな宗教画、聖母マリアが幼児イエスを抱いていて、そこに2人の女性がかしずいている絵をじっくり見る。キリスト教は基本的に一神教なのだが、カトリックは聖母信仰が強い。神様中心ではあるが、聖母信仰もあり1.5神教くらいの感覚だろうかといつも思う。しかしヒンドゥー教の世界観と違い登場する神は全体に少なく、静寂のうちに内面に向き合い祈ることが美徳とされる。神の表現というのは本当に違うものだなあと実感する。
今月もうひとつ見たものに横尾忠則の「寒山百得展」があった。伝説の風狂の僧侶、寒山拾得をモチーフに102点の新作絵画が展示されていた。絵の大きさも大きく、中には午前と午後に描いたものもあり、年齢を考えると恐ろしい体力と創作力だ。横尾忠則は作風がギラギラしていてそう好きではなかったのだけど、今回のものは色味といいぐにゃぐにゃした線といい、なんだか力が抜けていて気持ちがよい作品が多かった。涅槃とか悟りというのはこういうことかもと一瞬思ったほどだ。
私には神さまや、神さまみたいなもの、なにか超越したものをどういう形で表したらいいのか、いまだによくわからないのだけれども、そういうものが「ある」と思って日々を暮らすことは、世界の奥行きを随分と広くしてくれるのだろうなと思っている。
金木犀が見事な季節