母の日の予行演習と言って、長女がシフォンケーキを焼いてくれた。しかも生のイチゴをジューサーにかけたのと、刻んだものが入るらしい。なんでも動画で見て一番美味しそうだったとのこと。最初から難易度高めなので、期待せずに待っていたところ、基準が甘いのか、普通に売れるのではないかという出来栄えで、びっくりした。同じように、最近お弁当を作ってくれることもあるが、美味しく目に美しい。朝5時半から起きて作っている。わたしは完全に胃袋をつかまれている。
本人的には課題があるらしいが成功の秘訣を聞くと、とにかくレシピ通りに、手順を飛ばさずに、丁寧に作ればいいだけとの答え。当たり前なのだけど、なんだか反省する。日々の料理は、今あるもので目分量でチャチャっとつくるだけ。レシピなんかほぼ見ない。その延長線上でお菓子も作るので、凝ったことはしない。レシピ通りに、というのは家事が出来ない人の行為と思い込んでいたが、やはり美味しくできるのだなあ、とちょっぴり打ちのめされた気分にはなる。
わたしはほぼ毎日ご飯を作る。そして家事もエンドレスだ。しかもフルタイムで働いて居る。あっという間に毎日夜だ。丁寧に家事をやろうとすると、色々と無理しかない。対して長女はたまに料理をするから初心で出来る部分も多い。だけどわたしは、惰性で、最小の労力で家事をやりこなして居ることで、失っていることも、ちょっぴりあるのだとは思う。自分の目の前に並んだ、自分で作った簡単メニューに、余り期待していない。
そう思って最近、一瞬だけレシピを見ることをするようにしている。大根サラダの大根をパリッとさせる術を確かめる。氷水に放つといいらしいとあったら、その理由を確認してみる。たったの一分くらいの手間で出来ることも結構あるようだし、ロジックを見つけて納得するのが好きなので、少し得した気持ちもする。まあ残念ながら今のところ、料理の味というアウトプットには大きくつながってないようだが。
一昨年102歳で天に召された祖母は、なんでも無い食材と調味料で、うっかり食べ過ぎてしまうほどに美味しいご飯をつく、kitchen goddess だった。彼女が亡くなったことを娘達に話すと、「え。もう、おおばあちゃんが作って送ってくれた牛肉の時雨煮が食べられないの…」と、絶句していたくらいだ。わたしは割に少食だけど、子ども時代に、祖母の茄子の揚げ浸しを食べ過ぎて、戻してしまったことを思い出す。目分量の料理だったからレシピは残念ながら無い。祖母は大阪に暮らしていたので料理を教わったこともほぼない。
たったひとつだけ覚えているのが、ふわっとして破れない薄焼き玉子の作り方だ。ちょっとだけ水と塩を混ぜる。卵焼き器ではなくて、フライパンを使う。やや弱火で焼いたら、ひっくり返さないで蓋をして蒸らす。卵の性質を考えると実に理にかなっている。ネット情報はやっぱり味気ないけど、21世紀のおばあちゃんの知恵袋としてちょっとだけ活用しつつ、日々食べるものをちょっとだけ美味しくいただきたいものだ。