白樺と朴の苗木を植えて来し山荘の冬の厳しさを思う
長野県の信濃町の大学村という庶民的な場所に、別荘とも山荘とも呼べない、山小屋を祖父から引き継いで父が所有している。そして上の短歌はそこから見える山林について、父方の祖母佐藤冨美子(ふみこ)が読んだ短歌である。昭和51年(1976年)作とあるので、その頃には山荘は購入されていたようだ。大学村のウェブサイトにもあるように、開村時には千里ニュータウンなどの集合住宅設計をした、京大の西山 夘三(うぞう)氏が設計し開発に関わったとのこと。このサイトには「若き大学人が山荘生活をできるようにと基本住宅を設計し、資材の一括購入で格安の別荘を建設」とあるが、その一人が私の父方の祖父、佐藤洋(ひろし)だった。ブルジョワジーを憎む(?)マルクス経済学者の祖父でも心理的抵抗なく買えたのだろう。「格安の別荘」はだから、庶民の象徴である昭和の団地の間取りをかなり踏襲している。C-19山荘は父の時代になりちょっぴり増築とリフォームがされたがほぼ原型を止め、6畳の和室が2部屋、おおよそ10畳ほどの居間にキッチン、そこに台所と風呂という2LDKの間取りである。
そんなお世辞にも広いとは言えない山荘に、幼少期は毎夏両親に連れられて行っていた。祖父母2名、叔父叔母の2家族8名、うちの家族4人、合計で最大14名泊まっていたと思う。夏の思い出は、おむすびばかり食べていたこと、トイレが間に合わず外で済ませていたこと、野尻湖横のプールの水が恐ろしく冷たかったこと、父が張り切ってオニヤンマを取ってくれたこと、たまに近所の方に山羊のミルクをもらったこと、などである。祖母が詠んだように、森の木々の大半は今とは違って白樺だったように思う。
そして冬。祖母は「山荘の冬の厳しさを思う」だけで良かったが、私は両親に連れられてスキーに来ていた。最初の頃はマイカーも無く、野尻湖までのバスの後は徒歩かスキーでの移動だった。山荘は外と同じ温度で、髪の毛は少しでも濡れていると凍った。スキー場では父は私を中上級のリフトに乗せ頂上に着くと、「じゃあ下でね」と華麗な直滑降で去っていったことがいまだに忘れられない。
それから幾星霜。現在では山荘にそれなりの期間来るのはほぼ私だけである。お年頃の娘たちには「あんなデカイ虫が出るところは無理」と完全にそっぽを向かれている。数年前までは「木を切るべからず」との方針があり、すっかり背が高くなった木々を見上げて途方に暮れつつ、草刈りやできる範囲の伐木や、壊れた階段の修理や、キシラデコール(キツツキが突かないような薬品が入ったペンキのようなもの)塗りと、肉体労働をして過ごしている。仕事も忙しく短い休暇なのにちっとも優雅ではないが、このまま地球温暖化が進めば、近いうちに関東では夏を過ごしがたくなるかもしれないし、南海トラフがいつ来るかも分からないので、最小限の手入れをしている。山荘が昔のように賑わう日は、だから来てほしいような来てほしいような、なんとも複雑な心境だ。
(近くの山からの景色は絶景)